自分を赦すこと

自分はキツいこと、苦しいことから逃げやすい性格だと思っていました。

しかし、最近人と話していて、どうやら周囲の評価はそうでもないようです。
もちろん、良く言ってくれてる部分もあるだろうし、「キツい」の代名詞のようなマラソンという競技をやっているイメージが強いのかもしれません。
忍耐力がないことをコンプレックスに思っていたからこそ、「もう少しだけ頑張ろう」という小さな積み重ねによって、知らず知らずのうちに忍耐力が身についていた可能性はあるかもしれません。

ただ、最近【どこまで耐えるべきか】はすごく難しいなと感じます。
自分自身にストレスをかけることで人は成長しますが、度が過ぎると心身は壊れてしまいます。
その限度を見極める基準が主観であり、体感なので、定量的に評価できるものでない上に、そのときの自身の状態によってもかなり左右されるなと思っています。

マラソンの練習で苦しくて仕方ないとき、頑張って走り続けるべきか、歩みを止めるべきか。
苦手な人との付き合いで、精神的苦痛を抱えながらもその人と関わり続けるべきか、自分のストレスを表現したり、絶縁したりすべきか。
嫌な仕事を生活のためにやり続けるべきか、転職すべきか。
などなど、様々なシーンで、この手の悩みが存在すると思います。

過去、苦しいことを頑張ってきて良かったと思ったこともありますし、逃げたことで状況が好転したこともありますので、経験的にも「どちらが正しい」ということではなさそう。

ここ数年は特に精神的な部分で苦しいことが多かった中で、長期にわたって向き合ってみたけど、完全解決しないまま、今は一旦蓋をしているような問題もあります。
苦しんでいる最中は気が重く、全てに対してネガティブ思考になっていきますが、逃避したことで精神状態は改善し、前向きでいられるようになった一方、根底にある問題そのものが解決したわけではなく、それを先送りにしているだけでは?という感覚もあり、これが正しかったのかどうか、正直全くわかりません。

そんな答えのない問いに悩んでいたところ、このような考え方に出会いました。

ものごとには大体終わりがくる。終わらないと始められないから、当たり前のことだ。睡眠はきっとそのためにある。漫然とつづく連続を眠りで強制的に切断することで、一日という単位が生まれる。終わると、評価することができる。終わらなければ評価できない。

ずいぶん永い眠りと評価することの意味、逃避行

そもそも答えなんてない問いに、自分なりの解を出すことが、評価するという行為の本質だと思う。自由であるというのは答えがないことを意味する。答えがないというのは絶対的な基準がないことを意味する。そしてそれは、誰からも赦してもらえないことを意味する。

ずいぶん永い眠りと評価することの意味、逃避行

コンフォートゾーンの外に身を置くことも大切だけど、ずっと不快だと潰れてしまう。
「ここまでやってダメなら絶対やめる」という期限を決めておき、終わり、区切りを自ら設定しておくことが、ストレスと向き合う上で重要なのではないかというのが現時点の暫定的回答です。

自分を赦してあげられるのも自分自身なのではないでしょうか。