人生の分岐点

先日、私の故郷である愛媛県新居浜市から「ミラクルスマイル新居浜」のFリーグ参入が決定しました。
四国初のFクラブが新居浜から出るということは、新居浜出身のフットサル関係者として、僅かながらFリーグに関わった者として、本当に嬉しく思います。

2023-2024シーズン、新規参入チームのお知らせ | Fリーグ公式サイト (fleague.jp)

ミラクルスマイル新居浜の創設者であり、現在も選手として活動しながら代表理事を務める多田羅優さん(以下、優くん)は、僕が新居浜西高校1年生のときに3年生だった先輩です。

今回、長年愛媛県のサッカー界を追い続けて下さっている、南海放送の江刺伯洋アナウンサーがミラクルスマイル新居浜のFリーグ参入についてのブログを更新。
その中で優くんの新居浜西高校時代の話にも触れられています。

J3リーグが開幕したばかりですが | ニュースの深層 南海放送解説室 (rnb.co.jp)

優くんが高校2年生のとき、新居浜西高校は初めて全国高校サッカー選手権への出場を決めました。
優くんはこのときの2年生エースで、10番を背負ってプレーする姿にとても憧れたし、僕が西高に入ってからも、こんなヘタクソな後輩の僕とも仲良くしてくれた最高の先輩なのですが、ここからの話は優くんのひとつ上の、僕と入れ違いで卒業していった先輩方のお話。

当時中学3年生だった僕は進路を決めないといけなかったのですが、当時は情報が少なく、近隣でサッカーの強い高校といえば、福西崇史選手を輩出したり、全国に出たこともある新居浜工業なのかなーというぐらいのものでした。
サッカーの強い高校に行きたいけど、工業高校に進学するつもりはなかったので、家から一番近い高校に進学しようと思っていた矢先、テレビで流れていた高校サッカー選手権愛媛県大会の決勝で、南宇和を破って全国を決めた西高の選手たちと、そこで語られた彼らのストーリーに憧れて「どうしてもここに行きたい」と思い、入試まで3ヶ月のタイミングで志望変更を決めました。

新居浜西高校は県下有数の進学校です。
生徒の9割以上は大学進学を志望しており、3年間アスリートのようにストイックに勉学に取り組む環境。
もちろん、サッカー部員も例外ではなく、毎日7限の授業をこなした後、練習が始まります。
(時々、通称「0限目」があるので、一日最大8限あります。笑)
おまけに学校のルールで部活動を終了しないといけない時間が決まっているので、練習は長くて1時間半。冬場は1時間程度しか練習できません。

なので、僕たちは朝から制服の下にサッカーパンツを履いておき、7限目の授業を受けながら先生の目を盗んでバンテージを巻いたり、サッカーソックスに履き替えたりして、チャイムと同時に部室へダッシュという毎日を繰り返していました。
強豪校出身の人たちがよくキツかった練習の思い出を語っていますが、我々には満足に練習できない思い出しかありません。

そして、何よりキツいのが、高校3年生のサッカーはインターハイで引退しなければならず、高校サッカーの集大成である高校選手権には出場すらできないこと。
なので、インターハイで全国大会に進めば夏休みまでサッカーができますが、県大会で負ければ6月には引退。
結果的に我々の代も6月で引退しました。(僕は大学進学しないことを決めていたため選手権まで残りました。)
もっともっと仲間たちとサッカーをしていたかったので、本当に寂しかったし、他の高校のみんなが羨ましかった記憶があります。

さて、話を西高初の選手権出場に戻しましょう。
僕が憧れた彼らのストーリー。

実はこのチームもインターハイでは県大会で敗れています。
本来であれば、ここで引退です。

しかし、彼らは校長先生に直談判して選手権まで部に残ったというのです。
この前年、彼らが2年生だったときにインターハイで全国大会に初出場して、初戦突破。
自分たちの代ではさらに上へと思っていたはずが県大会で敗退。
きっと「このままじゃ終われない」という想いが強かったのでしょう。

全員ではないものの、レギュラー核の多くが残り、迎えた選手権。
彼らは見事インターハイの悔しさを晴らし、全国高校サッカー選手権初出場を決めました。
リベンジを果たした喜び、満足に練習できない中で工夫しながら時間を作った3年間、残れなかった仲間の分までという想い。
そのストーリーに胸を打たれ、ここでサッカーがしたいと思い、西高への進学を決めました。

受験勉強しながらサッカーで全国出場。
全国大会の遠征先でも机に向かって、3週間後のセンター試験でも結果を出し、結局みんな大学に進学していたので、今思うとやはりあの先輩たちはすごかったんだなと思います。
選手権に残れなかった先輩も一般入部から早稲田大学でサッカー部主将を務めるなど、後々サッカーでも活躍されていて、彼らは本当に今でも憧れだし、OB戦でもやっぱい一番上手いんですよね。

当時から生活の中心にはサッカーがあって、それは高校でも一生懸命やっていきたいと思っていましたが、中学生ながら何となく「サッカーしかできない」生き方であったり、「サッカーが上手ければ何でもOK」みたいな環境に身を置くのは嫌だなという想いがあって、文武両道を掲げ、それを高い水準で成し遂げていた西高サッカー部の文化が自分の思想にバチっとハマった感覚がありました。

ただ、前述したような高校ですので、入るのもなかなかハードルが高い。
この試合を見て志望変更を決めたのが入試の3ヶ月前。
担任の先生には猛反対されたし、前年に中学サッカー部の先輩が西高受験に失敗したこともあり(結果高校では同級生になりました。笑)、多少ビビる部分はありましたが、何の思い入れもない学校でただ何となく3年間を過ごすぐらいなら浪人した方がマシだと思い、周囲の反対を押し切って西高受験を決めました。
退路を断つため、滑り止めの私立校の願書も勝手に捨てました。
カワバタ史上最も大胆な決断であり、人生で唯一母親にキレられた出来事です。
でも、それぐらい追い込まれないとやり切れないだろうなというのが当時の感覚だったのです。

それからは平日学校から帰ってきて6時間、休日は10時間以上受験勉強に取り組みました。
進学塾にも通わせもらって、毎日毎日気が狂いそうなほど勉強しました。

結果は無事合格。

過去のブログ でも書きましたが、単純に自分が納得できるだけの「量」をこなすことの大事さを学べたし、キツいことから逃げない耐性がついたと思っています。
この経験がなければ、後に自分を大きく成長させてくれる神戸での3年間の激務には耐えられなかったと思うので、たった3ヶ月ではあるものの10代でこれを経験できたことは良かったと思います。

周りが喜んでくれたことも嬉しかったですね。
サッカーもヘタクソで試合にも出ていなかったので、自分が結果を出すことで誰かが喜んでくれるみたいな経験はほとんどしたことがなかったと思いますが、このときは心配をかけた分、親も喜んでくれましたし、何より僕の志望変更に猛反対していた担任の先生が泣いて喜んで抱きしめてくれたことが本当に嬉しかった。
決断した後は先生が一番僕の想いを理解し、応援してくれた人だったので。
先生には今でも感謝しています。

そして、何より西高サッカー部は思った通りの最高のチームでした。
全然練習ができないストレスはもちろんありましたが、みんなで早くグランドに集まろうという姿勢で一体感が生まれる部分もあったし、短い分その時間の価値を感じながらプレーできていたんじゃないかと思います。
部活が終わった後は学校周辺の塾に行く部員が多く、毎日部活と塾の間にチームメイトと近所の小汚い大衆食堂に通ったことも良い思い出。

結局高校でも試合には出れなかったし、チームとしても大した成績は残せなかった。
勉強も案の定全くついていけなかったけど、高校サッカーは人生で最も充実していた3年間だったし、一生モノの仲間と出会えて、今でも本当に良い付き合いをさせてもらっています。

人生の分岐点とも言える、あのタイミングで、西高にチャレンジする選択をできた自分を褒めたいし、当時の自分に「ありがとう」を伝えたい想いです。

何が人生の分岐点になるかなんて全くわからないけど、何かを選択するとき極力「ラクな方」に逃げないようにしたいものです。