敗北のスポーツ学

現役中に「敗北のスポーツ学」というタイトルでnoteを始められ、「結果がすべて」なんて大嘘というセンセーショナルなファーストエントリーでサッカー界をザワつかせた元Jリーガー、井筒 陸也さんの初書籍。
以前から井筒さんのnoteを読ませていただいたり、彼が主宰するZISOの活動を追いかけたりしていたので購入させていただきましたが、なかなか時間が取れず、ようやく読むことができました。

本書は井筒さんがサッカー人生の中で経験されてきた不条理や問題と、それに向き合ってきたことが多岐にわたって記されていますので、人によって響くポイントは違うと思いますが、僕はやはり本書のタイトルにも繋がる最終章が面白かったと思います。

【結果がすべて】を否定することは勝利を目指さなくていいということではない。
「勝利を目指すべきだ」は「足でボールを触るべきだ」と同じぐらい当たり前の話。

その前提の上で、【意味のない勝利】を経験した井筒さんが、自分がスポーツをやっていることの意味と向き合ってきたことが言語化されています。

その中で紹介された、思想家の内田樹さんのブログエントリー「ご飯を作り、お掃除をすることの英雄性」の内容がとても興味深く感じました。

部屋は必ず汚れる。本は机から崩れ落ち、窓にはよごれがこびりつき、床にはゴミが散乱する。局地的に秩序が回復することはあっても、それはほんの暫定的なものに過ぎない。

無秩序は必ず拡大し、最終的にはすべてが無秩序のうちに崩壊することは確実なのである。

けれども、それまでの間、私たちは局地的・一時的な秩序を手の届く範囲に打ち立てようとする。

掃除をしているときに、私たちは宇宙的なエントロピーの拡大にただ一人抵抗している「秩序の守護者」なのである。

けれども、この敗北することがわかっている戦いを日々戦う人なしには、私たちの生活は成り立たない。

ご飯を作り、お掃除をすることの英雄性

「お掃除をする人」はその非冒険的な相貌とはうらはらに、人類に課せられた「局地的に秩序を生成するためのエンドレスの努力」というシシフォス的劫罰の重要性を理解している人なのである。

ご飯を作り、お掃除をすることの英雄性

汚れては綺麗にする掃除に終わりがないように、失敗と成功を繰り返すスポーツにも同じことが言えます。
勝利、優勝といったサクセスストーリーもあくまで「ある地点からある地点」を切り取った結果でしかなく、その先の人生については描かれていません。
スポーツとは成果に向かう直線的なストーリーではなく、失敗と成功を繰り返すゴールのない循環。その循環の中に身を置いてどのように振る舞うか、その循環に身を置くこと自体にどのような意味を見出すのか。
勝利を追い求めることはもちろん、それと並行してスポーツをする意味を考えること、意味を持たせようとすることもまた「スポーツをする」ということなのではないかと感じました。

自分自身がプレーするスポーツ、自分が関わっているスポーツにどのような意味や価値があるのか。これに向き合い、言語化することで、人生がより豊かなものになるような気がしています。

敗北のスポーツ学 セカンドキャリアに苦悩するアスリートの構造的問題と解決策 (footballista) | 井筒陸也 |本 | 通販 (amazon.co.jp)